28 2月 2018

目に見えない文化の違い。

日が長くなってきました。朝7時前でも明るい。17時過ぎてもまだ明るい。
春が日に日に近づいているのを感じる今日この頃が、実は一番好きな時期かもしれない。

今週はキリッと冷えるマイナスで、でも快晴っていう天気の日が続いているので嬉しい。外はマイナスで寒いというか痛いけれど、室内は半袖でもいけるっていうのがいい。
だからあまり寒くは感じない。


今回は、目に見えない文化の違いについて。

社会システムの違いはあるにせよ、日本もスウェーデン両国とも先進国であることには変わりない。

貧困問題はあっても、社会自体は十分に発展している。

蛇口をひねれば水道水が流れ、水洗トイレで用を足し、どこでもインターネットが利用できる。女性が1人で外出することだってできる。野菜の種類も新鮮さも日本とは比べ物にならないけれど、徒歩圏内のスーパーで、衛生管理された乳製品や肉類、野菜、魚類となんでも買えることはできる。

スウェーデンに暮らして今年でもう6年(!!)にもなるけれど、ここは生活を営むうえで基本的なインフラが整備された社会、生活レベルを落とさなくてすむ暮らしができる社会であるから、私にとってはそこまで大きな物理的異文化は感じない。

20代の頃に10ヶ国以上を旅行し、各国とも短い滞在期間だったけれど、その中で再認識した自分の価値観は、国全体が成熟している社会じゃないと私は生きていけないということ。

簡単にいうと、発展途上国は無理。

水道水飲めないと無理。

水洗トイレじゃないと無理。

女性1人でも外出できないと無理。

先進国でも、中国のように国全体の貧富の差がやばいところは無理。

私がもっとも重要視する価値観で考えれば、(言語とか仕事とかそういう問題は無視して、生活レベルだけで考えれば)心地よく住める国は、日本か韓国か北欧諸国かカナダぐらいかな。

水資源が豊富で、シャワーはいつでも浴びれて、水道水が飲めて、Wi-Fiが使えて、電気が使えて、最低限の社会保障が整っている国。そういった国って限られている。

なので、日本と似たような水準で生活できて、国全体が同じぐらい経済的にも社会的にも発展しているスウェーデンだと、日々の生活で別に不便なことや、大きなカルチャーショックを感じることはそうそうない、、、ような気がする。(弱気)

もちろん、電車がよく遅れるとか、スーパーの野菜がたまに痛んでるとか、タバコのポイ捨てがひどいとか、そういった小さなカルチャーショックは山ほどあるけれど、それは私は乗り越えられるレベル。

こういった、目に見え、わかりやすい異文化に適応することがまずは第一段階。この点は、上記したように両国でそこまで大きな違いはなかったので大丈夫だった。

その次に待っていたのは、目に見えない異文化。というか、社会的ノーム。ノームをどうやって訳したらいいかわからないけれど、「常識」でいいのかな?

小さい時から「こんなの常識でしょ!」と母親に怒られながら育ったので、人一倍社会の常識に敏感な私。

常識、というのは国レベルで、社会レベルで、人レベルでも大きな違いがある。似たような常識観念を抱いている者同士で集うのが一番心地よい。

この「常識」がとてもトリッキー。

何が正しくて、何が間違いなのか。

生まれ育った日本では、自分自身で培ってきた価値観でなんとか判断することはできた。

でも、そこから新しい社会に引っ越して、そこでの「常識」の判断を手探りでトライアンドエラーしている感じ。

何が普通で、何が普通じゃないのか。

その「普通」の判断は、最初は身近なパートナーの影響を受ける。
でも、パートナー以外の他者との関わりや、日々の生活を通し、自分自身の判断基準や価値観を得、築くことは、自分のアイデンティティのためにもすごくすごく重要なことだと思う。

でもここで知り合った多くの方は、自分に対してsecureで、どこの国だろうとゆるがない「自分」をもっている人が多いから、ふにゃふにゃな私の葛藤はなかなかわかってもらえない。

誰かの家に招かれたら、彼は手ぶらでいいよって言ってたけれど、私は小さな手土産は持参したい。

30になって大学へ通うのは、彼は普通と言っていたけれど、私は珍しくはないけれど普通ではないと思う。

タバコのポイ捨てをするのが普通の社会だとしても、私はしたくない。まぁタバコ吸わんけど。

チップの文化はあまりないスウェーデンだけど、料理やサービスに満足したらチップを払いたい。

日本社会ほどじゃないにせよ、このスウェーデン社会にも少なからず「空気を読む」文化はある。

「ノームなんてクソくらえッ!」って思えるのは若さの特権。

アラサーになった今、周囲に合わせたい、普通になりたいとビクビクしている自分に気がついています。

なんでだ?

アラサークライシス?

でもこの問題が、形で見えない文化の違いのせいというより、自分自身の低い自尊心のせいな気がする。





何が言いたいかというと、スウェ社会より断然「普通基準」が厳しい日本社会で、常識者であろうと努めてきた自分は、その価値観を基にしながらこの社会でも生きているけれど、その「普通」意識のせいで「他人に迷惑をかけるかな?」とか「空気読むべきかな?」と自分にストップをかけてしまうことが多いので、その基準を破る勇気が必要だなと、いうこと。


でも基本的な社会のノームで、なんとなく日本とスウェーデンでは似ている点は多い。

Normer i kollektivtrafiken


Normer och dess makt


え、スウェーデンもエスカレーターの右側に立つとかルールあるの?!

2 件のコメント:

  1. 興味深く読ませてもらいました!このことについて、私もよく考えるんだけど、なかなかこういった事を話し合える人って周りにいないから読んでいて、嬉しかったよ。
    常識の価値観って本当、国、地域、家族、個人で価値観が色々交じり合って成形されているもので、うまくそれが合わさった人と出会うって難しいよね。そしてそれを理解するには時間も必要。

    当たり前ってそもそも何なんだろうとか、ふとバスの隣に座っている人は、この景色を全然違った価値観で見ているのかなとか普段からよく考えたりしちゃうよ。

    日本では私も「そんなこと常識でしょ」って言われたりして育ったけど、今は特に違う価値観になりすぎて、日本の常識はもう私の常識ではない域になってしまったような気もする。


    最終的には自分の無理な範囲でない軸を超えない限り、もっとゆるくていいんだなって最近思うようになりました。あまり基準を高くしすぎて、「ありえない!」ってイライラするよりも、もっと自分のハードルも下げていいんだって(笑)特に私の周りの人は私が気にするほど何も気にしていないって思ったら自分の気が楽になったよ(てか本当に気にしてなさ過ぎる。笑)。その自分での加減が一番難しいけどね。お互い加減を見つけて無理しないようにしようね♪


    北のMarico

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    1. 北のMaricoさん、ご無沙汰してます〜
      よくわからないポストに、あたたかいコメントしていただきありがとうございます。

      相手に対して自分の常識を当てはめることはそこまでないんですが、自分の行動をどこまで従来の常識の範囲に沿えばいいのかよく悩みます。Maricoさんのおっしゃるように、周りは自分が気にするほど気にしてないんですよね。でもどうしてもコンプレックスや自尊心の低さから、周囲にビクビクすることが、大学生活で増えたような。。。これも慣れなんでしょうか。

      春が近づいてきましたね。またLINEします\(^▽^)/

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